かめと私
一番初めに買ってもらった縫いぐるみがタオル地のかめだった。かなり気に入っていて、して、かのかめは可愛がられるあまりに揉みくちゃにされた。手垢で真っ黒、洗ってももう綺麗にはならない。つけた名前が「きたないちゃん」。なんというセンス!子供(=自分)の考えることはよくわからない。因みに、自分がこういう思考の道筋を通ってきたことを覚えているから、現在の子供である人々が、自分の世界の言語でワケのわからないことを喋っていても、理解は出来なくても、気持ちはとてもよくわかる。
話がそれたが、同時期に姉も柄違いのかめを買ってもらっていて、これは間もなくおさがりとして筆者のトコロに回ってきた。姉は筆者と違って物の扱いがそれほど乱雑でなく、そのかめは比較的綺麗な状態だった。つけた名前が「ぴかぴかちゃん」。ストレート過ぎる――なんとコメントしてよいのやら。
「きたないちゃん」も「ぴかぴかちゃん」も、買った当時は頭にフェルトのリボンがついていて、メスっぽく見えた。ところが、初めから粗雑に扱われた「きたないちゃん」はフェルトの部分が食いちぎられて(!)おり、フェルトを留めるためのビーズが一つ、その名残をとどめるのみだった。したがって「きたないちゃん」はオスっぽく見えた。そして、二匹のかめはめでたく夫婦となる。「結婚式の様子」「暮らしている家の様子(断面図)」などなど、人の生活さながらの絵を取りとめもなく描いていたものであった。
小学校低学年の頃の筆者のあだ名は「かめ」だったことがある。喋り方がのろいせいだったのだろうか。班ごとの発表会(通称「お楽しみ会」!?)では「うさぎとかめ」の紙芝居を出し物に、図工の時間はことあるごとにかめの絵を描いていた。工作物ももちろんかめ。実際にかめを飼ったことはないのだが、「かめ好き」という情報が、知らず知らずのうちに、自分にも周りにも刷り込まれていった。
中学生以降はマイかめブームは下火になっていたが、思わぬところからそれは復活した。中学生の時から物書き趣味があって、友人とつたない同人誌を出していたこともあるのだが、その同人の一人が高校生になってから個人季刊誌を出し始め、筆者も何度か原稿を出したことがある。その際、文章のジャンルによって筆名を変えていたのだが、その一つを「」にしていた。読み方はご自由に、な?んてことをすると、困るのは周りであるのはアメリカの歌手「プリンス」(今はどうなっているんだろう?)の例でも明らかだ。友人は私のためにワープロに外字登録してくれた。これに拍車をかけて、「踊るかめ」「眠るかめ」などというものも作って、大学内のミニコミ誌に投稿したことがある。一回限りの投稿であったにもかかわらず、担当者は複雑な手書きの絵文字をちゃんと外字で作ってくれたようだ。
そして、大学時代に入っていたサークルの部室に、連絡事項を書き留めるノートがあったのだが、用件の後に添える署名にもこの「」を使った。ここでは無論手書きであるし、筆者自身しか書くことはないので誰も困らない。それどころか、一目で誰の著か判別できて、なかなか便利であった。余談であるが、こういった「一目判別可」に憧れてか、へのへのもへじの様に名字を顔型にアレンジした署名を添えるのがサークル内で流行ったこともある。
そんな訳で、またしても周りへの「かめ好き」刷り込みが始まり、ことあるごとにお土産・贈り物に「かめ」グッズを戴くことになってしまった。そんなワケで、我が家にはかめが溢れている。さながらかめ御殿である。